観音平古墳群 入口看板
斐太遺跡が解体し、ふもとの扇状地や沖積地に集落が移動すると、斐太遺跡に隣接する丘陵部は首長層の墓地として利用されはじめ、山の上は山の神霊とともに首長霊を祀る重要な場所へと変化しました。斐太遺跡の北に隣接する観音平古墳群では、これまでの分布調査で57基の古墳が確認され、現在も53基の古墳が良好な状態で保存されています。平成13年と14年に実施した発掘調査により、山頂部に築かれた1号墳と4号墳が前方後円墳であることが明らかとなりました。最後の古墳が築造された時期がわからないため、現在のところ古墳時代の前期から中期にかけての古墳群として評価されています。最高所に築かれた前方後円墳は、近畿・瀬戸内地方で独自に発展し、西日本において権力者の墳墓として普及しはじめたものであるため、この古墳の出現は、近畿地方を中心とした新たな政治勢力との間に接点があったことを示しています。観音平古墳群は、春先のカタクリの群生地としてもたいへん有名です。
観音平古墳群 1号墳
1号墳は平野部への眺望に優れた標高100mを超える丘陵頂部に立地しています。本古墳群の最高所に位置する古墳で、円形の主丘に短い突出部が接続する全長26.8mの帆立貝形前方後円墳です。前方部は後円部の約1/4の長さとなっているため、年代が新しくなるに従って肥大化していくとされる前方部が未発達という点で、3世紀中ごろに築造された可能性が指摘されています。
観音平古墳群 4号墳
4号墳は標高約97mを測る丘陵上に立地し、尾根筋が北と東に分岐する地点に築かれています。本古墳は全長33.6mの前方後円墳で、埋葬施設は一段高く築かれた後円部に設けられています。前方部が後円部に対して低くて短く、約1/2の規模となっている点に特徴があり、こうした特徴と後円部が楕円形になっているという特徴の両方を備えたものについては、「纏向型前方後円墳」と呼ぶことがあります。この纏向型前方後円墳は古墳時代最初期の古墳の型式と考えられ、築造年代については3世紀中頃~後半と想定されています。纏向型が創出された纏向と呼ばれる地域は、邪馬台国所在地の最有力候補となっている纏向遺跡の所在地です。そのため、この纏向型はヤマト王権を象徴する王墓の型式であり、その地方への波及は、ヤマト王権の地方進出と関連づけて理解されています。本古墳は現在のところ県内最古級に位置付けられており、この前方後円墳の築造によって当地の古墳時代の幕が開けたといっても過言ではありません。1号墳と比べて前方部が長く発達した形になっているため、本古墳群においては1号墳に後続する古墳と考えられています。
観音平古墳群 墳丘墓群
1号墳から延びる尾根を4号墳から北へと下ると、わずかに盛り上がった低い墳丘が点々と連続する傾斜地に至ります。これらの低い墳丘は、前方後円墳が出現する前に築かれた弥生時代の台状墓と呼ばれる埋葬施設の可能性があり、その可能性を後押しするように、周辺には斐太遺跡で見られるような丸い窪みが分布しています。この場所は、これまで古墳群の中に含められてきましたが、古墳の下に弥生時代の集落遺跡が埋もれている可能性があり、将来的には高地性集落の範囲がさらに広がり、その面積が15万㎡に達することも十分に考えられます。