鮫ヶ尾城跡 通称二ノ丸跡

鮫ヶ尾城跡

新井エリア

ABOUT

鮫ヶ尾城跡 入口看板(景虎看板)

鮫ヶ尾城は上杉謙信が支配した越後を代表する山城跡の一つで、信越の国境地帯を望む交通の要衝に位置し、隣国大名の侵攻に備えた大規模な山城です。謙信没後に起こった御館の乱と呼ばれる家督相続争いの決戦の舞台であり、上杉景勝が上杉景虎を追い詰め、景虎が自害して勝敗が決したことで有名です。歴代の城主は不明ですが、御館の乱の際にやり取りされた古文書には「堀江宗親」の名前が見えます。鮫ヶ尾城の築城にあたり、鬼門に当たる方向に矢代川の奥地から矢代大明神を勧請してきたと伝えられています。これが現在山麓に鎮座する斐太神社に祀られている「事代主命」です。おそらく、土地を支配した武将とその領民が、最後に神仏を頼って立てこもろうとした場所が山城であったため、鮫ヶ尾城についても、神仏の加護を受けるために古くから鎮守の森とされてきたこの場所を選んで普請されたと考えられます。山城の正面口は山川が流れる谷筋にあり、少し下流の乙吉地内には城将の館跡がありました。測量調査や発掘調査を経て、平成20年に国の史跡に指定されました。

鮫ヶ尾城跡 入口看板(景虎看板)
鮫ヶ尾城跡 入口看板(景虎看板)

鮫ヶ尾城跡 通称二ノ丸跡

山城内に造作された平坦面のことを曲輪と呼んでいます。この通称二ノ丸跡は本山城の中心となる曲輪の一つで、通称本丸跡の下に位置し、隣接する曲輪からの通路が集まってきていることから、城の中でも特に重要な場所であったと考えられています。発掘調査では、広く造成された曲輪の中央には多くの柱穴があり、建物跡が存在したことが明らかになりました。発見された建物は、地面に穴を掘り、穴に直接柱を立てて屋根を乗せただけの掘立柱建物で、推定による建物の規模は桁行約8.6m、梁行約5.1mでした。建物に接して、戦いに備えて集められたと見られる「つぶて石」が大量に出土し、建物内とその周辺からは、16世紀後半の中国製の陶磁器や国産の陶器なども数多く出土しました。直接、火を受けて表面が焼けた遺物が多く見られることから、御館の乱の戦火によって山城が焼け落ちたとする記録が確かであることが実証されました。

鮫ヶ尾城跡 通称二ノ丸跡
鮫ヶ尾城跡 通称二ノ丸跡

鮫ヶ尾城跡 通称三ノ丸跡

この曲輪では明確な建物の痕跡は認められませんでしたが、塀や柵などの外構に関する遺構とみられる柱穴がわずかに確認されました。出土遺物では、通称二ノ丸跡と同様の16世紀後半の焼けた陶磁器類に加えて、全国的にも珍しい炭化した握り飯が当時の形状を留めた状態で出土しました。

鮫ヶ尾城跡 通称三ノ丸跡
鮫ヶ尾城跡 通称三ノ丸跡

鮫ヶ尾城跡 通称本丸跡(山頂部)

上杉氏の北国街道の防衛を兼ねた街道整備の一環として、特に春日山城直近の要害としての役割を担った山城跡。 御館の乱では最後の決戦の舞台となった。

鮫ヶ尾城は平野から信越国境までを見渡すことができる戦略上の要所に位置し、要害に適した複雑な地形に恵まれていました。しかし、選択の条件としては、この丘陵部が斐太遺跡や古墳群、斐太神社が立地する古くからの鎮守の森であり、山麓で暮らす人々の信仰が深く根付いていたことが重要な要素であったと考えられます。鮫ヶ尾城の正面口は山頂から見て南側に延びる尾根筋にあり、ふもとからは左右に屈折しながら進む登城道や敵兵を迎え討つための武者溜り、土塁・切岸を組み合わせた出入口などが連続して設けられ、自然地形を残さないほど徹底的に加工されています。山頂部は眺望に優れ、遠く日本海から信越国境を隔てる関田山脈までを望見することができます。これまでの発掘調査によって、鮫ヶ尾城は上杉氏と武田氏の抗争が激化していく16世紀後半に整備拡充され、天正7年(1579)の御館の乱の戦火によって廃城になって以後、再び使用されることがなかったことが確かめられています。我が国の戦国史において特に有名な合戦の一つである川中島合戦や、謙信没後の武田氏・織田氏・北条氏などの隣国大名の勢力図を大きく塗り替えた御館の乱に関連する山城跡であり、廃城になった天正7年段階の姿を忠実に留めた貴重な山城跡の一つとなっています。

鮫ヶ尾城跡 通称本丸跡(山頂部)
鮫ヶ尾城跡 通称本丸跡(山頂部)

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INFORMATION

住所 新潟県妙高市宮内
電話番号
駐車場案内
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